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【芥川賞受賞作品】背高泡立草を読んでみた

出版社への就職を目指すべく、まずは今年発表された芥川賞受賞作品、「背高泡立草」

 

(著:古川真人)を読んでみました。

 

芥川賞っていうのは、日本文学振興会による純文学の新人に与えられる賞のことです。

 

これと一緒によく聞くのが直木賞。こちらは、大衆文学の新人に与えらる賞ですね。

 

私がこの二つを知ってまず思ったのが、純文学ってなんだ...?ということです。高校の

 

国語の事業で習ったような気もするけど、正直わからない。

 

調べてみました。

 

純文学とは、「芸術性に重きを置いた小説」だそうです。

 

・・・?

 

これだけだと、なんだかよく分かりませんね。

 

少し純文学について深堀ってみましょう。

 

 

まず、純文学の始まりは、二葉亭四迷の「浮雲」とされています。

 

その後1900-1910年代は田山花袋の「蒲団」を始めとする自然主義文学が主流に。

 

この作品を機に自然主義文学は現実を赤裸々に描くものというイメージが強まりまし

 

た。島崎藤村の「破戒」も自然主義文学です。

 

その後、1910-1920年代には、自然主義文学に反発する反自然主義運動が盛んに。

 

白樺派武者小路実篤志賀直哉)・高踏派(森鴎外)・余裕派(夏目漱石)・耽美派

 

永井荷風谷崎潤一郎)がそれにあたります。

 

その後、1930年代以降に川端康成横光利一などが出てくるわけです。

 

 

写実的・私小説っていうのがキーワードでしょうか?感覚的には。

 

SFやライトノベルなどとは違うのはなんとなく分かります。

 

なんとなくわかったような気はします。

 

 

それで、今回読んだ「背高泡立草」ですが、これを読んで芸術っていうのはこういうこ

 

となのかなというのは少し感じました。

 

まず、この題名にある背高泡立草というのは、セイタカアワダチソウと呼んで、字の如

 

く草の名称です。初めて聞きましたが。

 

物語は母親の実家にある納屋の周りに茫々と生えた草を刈りに、母親とその姉、従妹と

 

主人公の4人で、納屋のある長崎の島に車で向かうことから始まります。

 

主人公がずっと疑問に感じていること、それは「なぜ草を刈る必要があるのか。」

 

というのも、その納屋は今となっては誰も使っていないんです。なら、別に苦労してま

 

で定期的に整備する必要はないんじゃないか、主人公はそう思っているわけです。

 

確かにそうですよね、私もわざわざ草刈りなんてしたくないです。

 

しかし、祖母の家や「新しい家」、「古い家」に行き、少しずつ母や叔母に「家」のこ

 

とを聞いていくうちに、その歴史を知っていく主人公。

 

実際に主人公たちが移動するごとに「家」にまつわる過去のエピソードが挟まれていま

 

す。

 

それと同時に、登場人物がそれぞれ、「家」と家族を重ねていることに気付きます。

 

草をそのままにしたら、どんどん古びていってもう元に戻ることができなくなってしま

 

う。そう考えているのではないでしょうか。

 

徐々に調子が悪くなっていく祖母、老いを感じるようになってきた母。彼女たちと草を

 

刈ることができるのはあと何回だろうか。

 

来年も元気に草を刈る彼女たちを見ることができるだろうか。

 

そんな風に思って、朝とは打って変わり、来年の草刈りを考えるようになった主人公。

 

 

というのが、私の解釈です。

 

あっているのでしょうか。

 

草刈りの一日と「家」にまつわるエピソードが重なり合い、1日とは思えないような時

 

間を感じる作品でした。

 

次は直木賞受賞作品を読んでみようと思います。